春分雑記

 明日は春分である。今日以降半年間、昼が夜より長くなる。夜行性占い師としては寂しい限りである。
 春分は、春の彼岸の中日である。本来なら墓参りに行くべきところであるが、今年も帰省しない。正月も帰っていないし、盆も富山に留まるであろう。秋の彼岸にも故郷には戻れそうにない。まったくとんだ不孝者である。

 ところで、今挙げた4時期、盆正月に春秋の彼岸というのは、そもそもは全て御先祖様が帰って来る日である。今日では、御先祖はもっぱら盂蘭盆にのみ帰って来るかの如く考えられているが、そんなことはない。この国では古くから、亡くなった方々は各季節ごと定期的に、或いは必要に応じて臨時に、だから、一年中わりと頻繁に帰って来るものと信じられていたのである。

 今でこそ、仏教その他外来宗教の影響を受けて、亡者は遥か彼方の西方浄土か天国かへ追いやるものと考えられているが、本来、日本人は死ぬと山へ行き、神となったのである。これを氏神とか産土の神とか言う。あまり遠くへは行かず、子孫のすぐ側にとどまっていたのである。で、先述の通り、事あるごとに里へ降りてくる。
 この降りて来た御霊をもてなす行事が祭である。本邦の祭には様々な個性を持つものが多いが、それでも必ず共通する点が2つある。その2点は外国の祭では欠けることがままあるのだが、1点目はミテグラを用いること、2点目は食物を供えることである。

 ミテグラというのは、ミは尊敬語の御、テは手、グラはクラ即ち座、神の降り給う依り代であり、つまり手で持ち運べる依り代のことである。古くは、神は巨岩大木、山などに降りて来られると信じられ、それらが信仰の対象となっていた。後に、神の御霊を勧請する際の簡易な、持ち運びの出来る依り代として考案されたのがミテグラである。代表的なものとしては、神主が振るう幣、榊の玉串、扇、笏、燈明、玉、鏡、剣などが挙げられる。これらは神に対しては降りる場所を示す目印であり、人に対してはそこが神聖で清く淨い祭の会場であることを示す標識である。

 食べ物を供える方は解りやすい。御出でになった神へのもてなしである。食べ物だけでなく、お酒も供される。御神酒上がらぬ神は無し。どこの祭でも御食と御酒を机代に置き足らわして祭に当たる。
 さらに、本来はこれが祭の枢要を為す行事であったのだが、直会ということを行う。これは、現在では御供え物のお下がりを皆で飲み食いするものであることが多い。が、本来は、一つの釜、一つの鍋、一つの甕で一度に作った酒食を、神と人とが共に食べることを言うのである。要するに、神様即ち御先祖を主賓とする宴会である。神に喜んで頂くために、出来るだけ賑やかに、それこそお祭り騒ぎをすることが望ましい。酒は潰れるまで飲まなければならない。これが本来のお祭りの作法である。
 この祭の目的については、文化人類学者ならば「神を象徴とし、同じ釜の飯を食うことで共同体の結束の強化を図る」とか「娯楽の少ない農村で、年に数回このような大騒ぎをすることによりガス抜きを図る」とか説明するのだろうが、私は単なる易者である。そんな野暮なことは言いたくない。「帰ってきた御先祖と楽しく宴会をする」「普段お世話になっている神様に喜んでいただく」で十分である。

 と言う訳で、今年も帰省はしないけれど、牡丹餅を作って宴を張り、個人的に祭を行う。御先祖様におかれましてはこれで満足して頂けますよう。

 

十薬庵