随筆

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坂之上拾い絵
かく云う僕の実家は町から三時間バスに揺られその後足で一時間程の立地で文明はオイルランプが最新である。
電波などは夢の先の技術である。
そう、僕が物理学科に入学したのは、勉強をして、技術者になり、この町のみんなに電気の恵みを与えてあげたい、そんな思いがあったな、なんてことを思い出しました。
帰省してからの一週間ばかりは僕はただぼんやりと日が落ちるのを硝子の前から眺めていた。
当たり前の様に過ぎて当たり前の様に来る日と日の間に何をしようという気も無く、
滔々と降る雨が何時の間にか雪へと変わったことも硝子の上で知った。
この一週間ばかりの風景は全て硝子の上に塗られたコバルトとジンクのみが与えたものだった。
行く日も来る日も雲は雪を運び、単調な硝子の窓に残る風景も狭隘を残すのみとなった。
少し昔、何時も僕の隣にはジョンという犬がいた。その頃の僕には友達は彼一人丈だった。今は彼はいない。
彼は旅へ行くと言って何処かに行ってしまった。彼は僕に色々なことを話してくれた。
僕がこの町を離れて知った事実の一つは、犬は喋らないということだ。全く不思議な話である。
ジョンは言っていた、自分と云うものの依拠が記憶なら、他人と自分を別つものは無く、他人の中に自己を認めることでのみ自我を保つ余地を得る、と。
布団の上で僕は天井の模様を辿りながら思い出していた。
そして、自己を思う事は自我を約束せず、雲の様にただぼんやりと存在と無の間に浮かんでいる、と。
僕は言葉を取り出してその意味を考えていた。辞書には無い彼の言葉は彼岸から流れ着いた果実の様に不可思議で見慣れない形をしていた。その言葉の真意を僕は知らない。
師走の月隠り、相も変わらず硝子の向こうをぼんやりと眺めていた。読書をする心持ちでも無い。何かに興を持って向き合う程に僕は落ち着いていなかった。
頭の底で淀み屡々浮き上がる幾つかの気持ちが僕を何度か動かす丈であった。
硝子を一面に白とした雪はもう隅で溶けるのを待っている。暫くは雪の降る様子はなかった。
僕は曇り空の中、厚着をして散歩へ出た。
川と山と原、大層な名前も無い。ただ水が流れ、ただ土が盛られ、ただ草が茂るのみである。
探せば名前は有るのかもしれないが、これらを区別する為の記号は、旧い書物の中で眠ったまま消えていくのだろう。
僕が子供の頃、集まる為に場所を区別する必要があったから、それぞれに名前を付けた記憶がある。
とんがり、めだか、カブト、の様に。
何に対しての符号だったかはもう判然としない。輝かしい少年時代の諸々は忘却の向こうへ失われてしまった。
足の進む方へ従えば、其処に見えたのは林だった。木々が生える合間を縫って小川が流れている。
ここはもう随分と前から伐採に見限られ放置されている。
立派に肥えた鶺鴒が木の根元で跳ねている。雪が塊で小川を流れて行く。僕は一人くしゃみをした。
大事なものは存外意識出来ないものである。いつか誰かから聞いた何かも心の内で時間を醸せば自分の知識だったかの様に錯覚をする。そうして得意になって誰かに知識を降らせるのだから滑稽だ。
人間の営みを時折嘲弄したくなる。身体の内に在る動物は骨と筋肉に纏綿として、血と時を盛る袋を躍動させている。
人間人間といっても人間は動物に他ならない。思考は物質に依存し、物質の存在はあやふやだ。自己は記憶を所在にする。記憶は物質に依存し、そうなれば自我は何の上に立つのか。
この物質主義は確固として現実に根を下ろしているかとおもえば、現実の方が雲の様に不確かである。少年時代からの出不精と倦怠はこの雲が原因であるに違いない。
にゃあ、と声がする。掠れた声だ。声がする方へ目をやれば、猫が首を吊って居る。
猫も首を括る時代かと思えば随分苦しそうにこちらを見るので下ろしてやった。何でも首輪を枝に通して器用に吊っていたらしい。
地面の上で身体と魂がまだ一体に在ることを確認した後、にゃあと一つ声を出して歩いていった。呑気なものである。
右手が出れば左足が従い、左手が出れば左足が引っ込む。器用なものだなと感心していれば、こちらを振り返って、にゃあと鳴く。
気付けばよく肥えている。尻尾も随分立派である。
十歩進めばこちらを振り返ってにゃあと鳴く。その度僕は、はいはい、といってその後をついていく。次第に十歩が三十、五十、百となってその尾が誘う方へ催眠されていた。
こいつは僕が猫だと思っている節がある。偶に振り返って鳴き、返事をしてやれば、その度に満足そうに歩を戻す。この先に待つのは猫の集会かなんかだろうか。
子供の頃、小川や農業用の水路何かに、葉で作った船を流して遊んでいた。葉を落として其処から先は天任せである。
いつ迄も浮かんでいてトンネルの中に消えていくのも有れば、滝の様になった所を落ちて沈んだきり浮かんでこなかったりした。
何かの目的もなく、葉が流れる先をずっと一緒に歩く、そんな遊びである。
当時一緒に遊んでいた友達は、中学生になってから殆ど話さなくなった。きまりが悪いなんて事もないし嫌になったわけでも無い。
子供ながらの自然に任せた遊びから歳を取るにつれて離れ、当時の友達と自分が何かしらの方法を共有していなかった丈の事である。
何かの共通が有れば今も付き合いはあったに違いない。
また、にゃあと聞こえる。
辿り着いた先は古本屋である。何とも文明的な猫である。首を括るのも肯ける。
御宅の猫が首を吊っていたので助けてここ迄来ました、と言っても不気味な心象を与える丈なのは明瞭だ。
そうしている内に戸の横に座って本を読んでいた男が、猫の方に寄って来た。きっと店主なのだろう。
男は、猫に向かって、猫、猫、と話しかけている。その男の後ろには白の犬が舌を出して座っている。男は、僕をみて、お客さんかい、と言った。僕は、ええ、呼び子に誘われて、と笑った。
僕の家にも、と僕は言った。男は猫を抱えている。昔犬が居たんです。泥棒に入られて、窓を割られてそれから犬を。男は、ほぉ、という顔をしている。
誰かに毒を盛られて死んでしまったんですがね。男は苦い顔をした。僕も蛇足だったと苦い心持ちになった。
そんな薄着で寒くないかい、と男は言う。言う方も言う方で厚着ではない。店の中は暖かいのだろうか。相応には着込んでますよ。と言えば、そうかそうかと笑う。
小学校の頃なのですが、友人と言うには足りない何かにつけて突っかかって来る奴がいまして、と僕は思い出した事をブツブツと言い始める。
十一月の終わりくらいに、そいつが厚着して来た方が負けな、と言い出したんです。男は猫を撫でている。そんな約束はすっかりその日の内に忘れてしまい、丁度その翌日寒波がやって来て冷え込んできたので厚着して学校に行けばくだんのごとく風の子を極めてる彼がなんとも悲しそうな不思議そうな顔で僕を見るので昨日の一方的な契約を思い出した、という話です。男は適当に相槌を打っている。
男と猫にそれじゃあ、と残して僕は帰路についた。その日の夜はすき焼を食べ、うどんを食べ、蕎麦を食べた。除夜の鐘は聞き逃した。
初夢は庭にヘリコプターが落ちて来て庭の土をひっくり返しながらグルグル暴走しているというものだった。何かあると困るので機体についていたナンバープレートはメモの中に認めて置いた。
それからの数日は、殊更本を開く気持ちも何かに躍起になる気もなかった。年が暮れても明けてもぼんやりとしていた。
手が寂しくなるときは楽器をやってみたりもした。押さえて弾いてみても旋律と呼べるものが出てこない。弦が振るえるのみである。
僕の妹はホルンというのをやっている。上述の文章はなんだかホルンという薬をやっているみたいな雰囲気である。
ホルンは金管楽器で、オウム貝みたいな形をしている。トランペットやサクスフォン何かに比べて認知度は低かろう。サクスフォンは金属製だが木管楽器らしい。
そのホルンだかなんとかを妹は四年くらいやっていて、妹がプロの演奏者に褒められたと母がやけに嬉しがっていた。何でも口の形がホルンの演奏に向いているらしい。天が与えた少ないうちの一つの才能であるらしい。そんなことをぼんやりと聞いていた。
その昼、年の終わりと始めまで一緒に居た恋人が彼女の家の集まりに行く為帰っていった。その日は雪は権勢を失くし雨が強かに降っていた。翌日、恋人の妹が水痘にかかった報せを聞いた。難儀だなぁと思いながら僕は惚けて寝転んでいた。
暫く前から家の三毛猫の腕の毛が抜けている。皮膚病かな、と思いがあったがどうも何処かを越えるときかなんかに擦ったらしい傷を付けていた。楕円形に毛が綺麗に抜けている。当の本人はけろっとしていて、腕を見ようと手を伸ばすと叩いてくる。額に手をやれば気持ちの良さそうに目を細める。
腹の方に手をやれば噛み付いてくる。こいつも好く肥えている。年越しには、年越しガツオを食っていた。寒い時には暖房のある所に寄ってくる。
部屋にいれば、開けろ開けろと鳴く。居れてやって飽きればまた、開けろ開けろと鳴く。これを一日の間に何回かやるが、部屋の暖房を切っていると部屋には来ない。
それから又数日が経ち、祖父の三回忌があった。
祖父について思う事はあまり無い。祖父について思うには僕は祖父の事を知らない。皆の集まりの中で言葉少なく孫と子を見て静かに笑う人だった。皆が集まる以外は、一人古びた畳の上で寂しく時間を過ごしてる人だった。僕はそれ以上の祖父を知らない。
親は、散々と死者の悼みの儀式には固執するが、寺へ赴く正装は西洋式のものであった。定めし彼らは念仏の意味も考えた事がないだろう。
彼らが固執してるのは自分の中にある信条では無く、世間の流れそのものでしかないのだろう。
科学という宗教に囚われた、現代の流れの中に身を投じる僕は、神仏的な宗教からは遠ざけられているものの、生活の中に神と仏はしぶとく生き残っていてそれに従う事が当然だと錯覚している。
生とか死とかが特別なものだと思いたいなら、それらに対する儀式は生死について侮辱に違いない。
どうあれ自分の内は自分のものでしかないなら、儀式で心情を代弁する必要は無い。ただ痛みを痛みとして受け入れる以上の事は出来ない。その痛みに託ける全ては愚かである。
母方の実家は婦中という場所にある。僕の住む実家は富山県アゼルバイジャン市にある。
三回忌の祖父は母方の祖父であって、父方の祖父は死んで五六十年ほど経つ。寺に着いた僕たちは、住職に挨拶をして中に入った。畳は何だかボコボコしていて空気の上に座っている様な心持ちがした。
襖の枠にクレヨンの落書きがあった。こんな場所にいるだけでそれすら禅問答な気がしてくる。其処かしこにある布には意味ありげな曼荼羅みたいなのがたくさんある。燭台の形は厭にヴァルプテュースである。しかし部屋の照明は電気であった。石油ストーブもある。八百万の神の思想は偉大である。
今日は暖かい。硝子窓の前では暑いくらいだ。猫も机の上の日向で寝ている。いつまでもこの気持ちの良い暖かさが続いたら言う事は無い。
しかし冬はこれからである。年明けの束の間の安らぎを今は存分に味わうのみである。