銀輪概史 序

 最近どうにもブログの更新が滞っている、と初代殿が憂慮しておられる。その彼の意志を受けて、不肖で不祥な十薬庵が例の如く乱文を書き散らす。さて何を書いたものか。

 

 そう言えば、今ではもう記憶している人もいないだろうが、規則上は我がクラブの「正式な記録」を残すことは総務担当者たる会計の職権事項となっている。というよりも、会計職設置当時、会計の主たる業務は事務一切の処理と文書記録の作成管理であった。財務経理の処理は付随的業務であった。

 活動における一切の自由を謳い、多様な価値観を有する部員が数多参集する我がクラブにおいては、発生した事案事件事象に対する解釈も評価も当然部員それぞれ全くの別物となる。これら部員個別の見解を排し、自己の主観的意見をあたかも客観的事実であるかのように後代に申し送ることが、勿論至誠義務を課されているとはいえ、会計の職権、或いは特権として認められているのである。従って、クラブ史は会計職に好意的なものになる。なんせクラブ史を書くのは会計なのだから。

 

 とはいえ、これは最早形骸化した職権である。橄欖二代会計以降の会計職がクラブ史を綴ることはまずないだろう。細大問わず記録を付ける、などという面倒な仕事を好んでこなす変態が、そうそう現れるわけはないのである。

 とは言え、私は仮にも初代会計職を務め、かの初代部長に供奉しクラブ黎明期の規則制度を建てた身である。自ら課した職務を放棄しては筋が通らない。記録役としての務めを全うしなければなるまい。

 

 そういうわけで、このクラブの今までの歴史の内、その記録が私の職掌に属していた時期、即ち平成22年の4月から平成24年の10月にかけての概史を語ることにする。

 

 

 とは言ったものの、さて、どのように書いたものだろうか。

 歴史を綴る作法としては、大きく分けて紀伝体・編年体・記事本末体の三つが考えられる。

 紀伝体は人物ごとに記事を設け、その伝記を集めて歴史とするものである。史記はこの方法で書かれ、それ以降の中国の正史はみなこの手法で記されている。

 編年体は、事件等を時間経過に沿って並べて述べるものである。春秋経がこれで綴られている。

 記事本末体は、各事件に焦点を当てたものである。事件の一部始終を述べて一つの記事とし、これを纏めて歴史とする体裁である。通鑑記事本末などが知られる。

 

 この三通りの記述法の内、読みものとして最も面白いのは、おそらく紀伝体である。次点が記事本末体。編年体はその次である。

 それ故、私もかの大史公にならってクラブ史を紀伝体で書き記し、「坂之上拾絵本紀」とか「占術師世家」とか「清水大坪列伝」とか「諸役員年表」とか「技学叢書」とかの章を立てたいところであるが、残念ながら、伝記を書くには資料も時間も、そして私の力量も不足している。

 それなら記事本末体で、としたいところだが、これについても、不用意な事を書くと部員から物言いがつくだろうから、小心な私には手がつけにくい。

 

 そう言うわけで、当面の記事は編年体で記述し春秋の筆法に倣う事にする。なお、これから語るのはあくまで会計の目線からみたクラブ史である。活動よりも運営に偏っているし、見えていない部分も多々ある。それらの点は予めご容赦願う事にする。

 

 

 次回、初代殿の創業から語り始めようと思う。

 

 

十薬庵