咒の話をして置こうと思う。
普通、咒は「じゅ」「のろう」と読み、意味はほぼ呪と同じで呪文や真言の事、またはそれらによる呪術を行うことである。であるのだが、ここでは「しゅ」と読んで頂きたい。以降、特に断りが無ければ呪は「じゅ」、咒は「しゅ」として使い分けることにする。なお、咒うは「のろう」である。「咒をかける」ぐらいな意味に捉えてほしい。
さて、咒の話である。まず、咒とは何ぞや、ということについてである。咒とは、大雑把に言えば、例えば意味や名前、形などの、「他者から与えられた属性」、また、それらの属性から受ける先入観、固定観念、思い込み等のことである、と理解してもらえばよい。
例えば、ここに小石がある。白くてすべすべしており、瓢箪を縦半分に割ったような形で消しゴムくらいの大きさの、良い感じの小石である。さて、私が諸君を夕飯に招いたとしよう。夕飯は鍋である。その際、食卓の諸君の席の左手前に、この良い感じの小石が綺麗に洗って置いてあるとする。ここで私が諸君に「客用の箸が無いから、悪いがこれを使ってくれ」と割り箸(袋無し)を渡したらどうだろう。おそらく諸君は、その小石に箸先を乗せるはずである。この場面を論じてみる。
まず、「食卓に置く」という行為によって小石に「箸置き」という咒が掛けられている。小石は小石であり、本来は無目的に存在しているものである。けして箸置きとして作られたものではない。この無為自然な小石に、状況によって「箸置き」という意味と役割を与えたのが先の場面である。このように、状況・環境を調整することにより何かを別の何かに見立てる行為が咒である。
また、客の側は、特に何を言われたわけでもないのに、小石を箸置きとして認識している。大仰なようだが、これは小石を箸置きとして認識するように咒を掛けられている状態である。
さて、占術と言う行為の半分くらいは咒を掛けることにより成り立っている。
まず、占術師はいかにも占術師然とした第一印象を与えなければならない。占術を行う場、服装、表情、小道具、香りなどを演出することで「自分は占術師である」という咒を施し、占術師にとっても顧客にとっても「占いが当たりやすい」雰囲気を作るのである。
この雰囲気は、言い換えれば異様、異妖、異常な雰囲気である。わざわざ異常に身を置くのは、勿論そのことが利益につながるからである。即ち、占術の神秘性が増すという点が一つ。占術を行うのに適した精神状態になりやすい、という点で二つ。そして、一番重要なのが占い依存症のリスクが減る、という点である。
占術、占術師という存在は、あくまで日常の外にあるべきものなのである。人為によってどうする事も出来ない事柄、理詰めで考えてもキリのない事案を判断するのに占術を用いる、というのが本来の正しい態度であり、日常のあらゆる判断を占いに委ねようという態度は極めて不健全である。このような占術依存症の発症は占術師にとっても顧客にとっても不幸なことである。占術師は精神的な負担が大きく、顧客は経済的に破綻することすらある。
かかる不幸を回避するために、占術師は策を講じなければならない。その一籌が即ち「怪しげな雰囲気」である。占術師が善良な常識人面をしていると、精神的に不安定な顧客に依存される可能性が高くなる。いかにも怪しげ、胡乱げならば、出来れば敬遠したいと思われるような存在であれば、依存されることも回避できよう。依存をかわせるほどの技量が無いのであれば、占術師は極力怪しげであるべきである。これは顧客を守ると同時に自衛の為の手段でもあるのである。占術師は自分に咒を施して占術師足るべく在るべきである。
同じく、道具類にも占術師の道具として咒を施すべきである。西洋魔術系の技術体系で言う聖別を占術道具にも行う。これにより、ただの竹籤、カード、サイコロや硬貨などを、未来を告げ、災禍を祓う聖具呪具として用いられるようになるのである。
方法は術師各人の任意で良いが、例を挙げれば朝日を浴びせる、月光を浴びせる、塩を振る、香煙で燻す、風に当てるなどである。
この効果としては、術師・顧客の気分的なものが一つ。これは叙上の通り占術に適した精神状態への移行が容易になる、というものである。他に、道具類の衛生保全が一つ。筮竹やカードなどは油断すると黴生す。聖別を定期的に行えばこれらも予防できる。
更に言えば、吉凶を告げると言う行為がそもそも咒をかける行為に他ならない。
まず、観測・操作によって得られた予兆や前兆は、本来それ自体では善い事でも悪い事でもない。例えば天球上で火星と土星が90度の角度を為したとしても、それ自体には別段の意味もなく、それはただ公転速度の兼ね合いでそうなっただけの事なのである。この現象に占術師が「破壊の予兆である」と意味を与えた、つまり咒を掛けたので、この現象は凶兆なのである。
また、発生する事象事態、本来は善でも悪でもない。例えば「雨が降る」という現象は善であろうか悪であろうか。外出の予定があれば望ましくない事象であるし、旱魃に苦しんだ後ならば恵みの慈雨である。このように、事象の吉凶判断はあくまで主体たる者の内に在るのであって、事象自体はただそれとして起こるのみである。現代においては本来、起こった事象が良いことであるか悪いことであるかの判断は、それを経験した者が各自で下すべきものである。
占術師が吉凶を告げると言う行為は価値判断と意味付けの代行に他ならず、従ってそれを顧客に告げるには細心の注意を払わなければならない。吉と告げるにしても凶と告げるにしても、それは顧客の意志決定に多かれ少なかれ影響を与える咒となる。
占術師の言葉は、それが占術師として放った言葉である以上は咒としての効果を有する。言葉一つで顧客の未来を祝福しあるいは呪詛するのが占術師である。占術部門の後輩諸氏は自らの言葉が祝詞とも呪文とも成り得る事を自覚しなければならない。